大島 庄吾 牧師

(おおしましょうご)
1957
年12月3日生まれ
日本聖書神学校卒業
趣味は音楽とドライブと買い物

 私が、信仰を与えられたのは、高校2年の時でした。当時私は、バレーボールのクラブ活動のためだけに、学校へ行っている様なものでした。
 高校2年の春休みの事でした。私は映画を見る事が好きで、良く映画館に通っていました。そして映画館のパンフレットを貰ってくるのです。それを姉に見せたところ、姉はすぐに小説塩狩峠の映画化と書かれた松竹パンフレットを見つけ「この小説とても面白かったよ。読んで見たら」と嬉しそうに私に薦めるのです。本などあまり読まない私でしたが、映画を見るお金もなかったことだし、高校2年の春休みでしたので、姉の嬉しそうな顔に誘われて、読んでみようかと決心したのです。
 私は小説を読みながらまるで映画でも見ているように一気に読み終えたのです。読み終えた感激は言い知れぬものがありました。その小説は本当のことを小説化していたものですから思春期の私に与えた影響は大きく、涙をもって読まずにはいられませんでした。その小説を通して愛するとは、死とは、を教えられた気がしました。
 主人公はその生活は正しく、清く、全ての人を愛していたのです。そして、最後のクライマックスでは、その年の冬、塩狩峠を機関車で峠にさしかかった時、一車両が連結のところから離れて峠を下り暴走して行ったのです。全員絶体絶命という時、乗り合わせていた主人公長野信雄は自分の命より乗客の全員を愛し、一人線路に飛び込み自らの体をブレーキとして犠牲になり乗客たちを救ったのでした。その日は主人公の結婚式の朝でした。
 私はその死と愛に感激し、主人公の根底に流れているのは、キリスト教であり、死を迎えるときは、人の為に死ぬという死に方は素晴らしいと思いました。それがキリスト教に接した最初で、悪い宗教ではないなと思いました。
そんな感動の春休みも終わり、またいつもの慢性的な高校生活になっていました。その慢性的な高校生活にピリオドを打ったのは私が2年の夏休みの在る事件が起こった事によってでした。それは、夏休みのクラブ活動の帰り道で、久しぶりに中学生の同級生に会う機会があったのです。その日は、いつの間にか10人以上集まり共に、大人になってきたことなど話はじめたりしていました。16歳になっていましたので、同級生の中には就職していた者もいました。バイクの免許証を取り大人になったという自負でバイクを乗り回したりして、その日はお互い楽しく過ごしていました。その翌日、暑い朝でした。友達が二人私を訪ねてきて、昨日楽しく語り合った友人が、死んだという知らせでした。私はとても信じられませんでした。「死ぬ」私より年上のように感じていた彼は、50CCのバイクで大型トラックにあおられ、転倒。対向車に引かれて即死だったそうです。大勢の中学校時代の友達が彼の葬儀に参列したのでした。葬儀も終わり、友達と別れ一人になった自分はいつしか、死と言う恐ろしいものに対して深く考えるようになっていたのです。「何のために人間生まれて来ているんだ。勉強したって死に対して何ができるのか」「皆やがて死ぬのに、どうして憎みあって、苦しんでいるんだ。死んでしまえば全て、何にもならないじゃないか」「次は私が死ぬんじゃないか」と夏の暑い日、自転車で学校に通うその路が急に怖くなり、鳥肌が立つくらい怖がっていました。鬱ぎみになるくらい思い詰めていました。そんな考えをなくそうと、クラブを一生懸命やったり、友達とワイワイ騒いだりして紛らわしていました。でも、心の隙間を埋めるものはありません。いつしか、家の仏壇に手を合わせることが多くなってきていました。
 そんな2年生の秋の事でした。通学に使っていた自転車が盗まれた私は、一時バス通学をしていました。学校の帰りのバス停に一枚のキリスト教の集会案内ポスターが目に留まりました。キリスト教?キリストと見た瞬間、私はあの塩狩峠の感動が走馬灯のようによみがえってきたのです。そしてその集会に一度行ってみたい、何かが私を待っているようで無性に行ってみたくなりました。暖かく迎えられた私は、三日間の集会を大変楽しく集った事を覚えています。三日間の聖書の話は忘れましたが、講師の先生が死を目前にした病床の中で聖書を読み救いの道が開かれ、病気の為、一方の肺を切除し、一つの肺で呼吸しているものの病から解放されて素晴らしい生涯へと導かれた証は、今も忘れません。その救いに感動した私は心の中で決心していたのです。その日から求道生活が始まったのでした。聖書の話が、解かったり、解からなかったり教会員の方に支えられながら求道生活でした。そんな私に決定的な瞬間の日がやってきました。高校3年の時に行った高校生バイブルキャンプの信仰入門講座で、私は「教会でよく、愛、愛と言うんですが、愛とはどういうものなのか教えてください。」と質問したのです。私はお互い他人同士愛すればよいのだろうと半ば思っていたのです。そうしたら、宣教師の先生は、真面目な顔になり、周りの人達も静かになった時、先生は口を開きこう言ったのです。「人間の愛は他の人が愛してくれるから愛するし、愛されるから愛するといった、条件付きの愛です。しかし、神の愛は、御子イエス様を此の世に遣わし、人間の汚い罪の身代わりとして、十字架にかかって死んでくださったと言う、それは、イエス様が無条件で、人間を愛して下さった。神が一方的に人間を愛して下さったのです」と教えてくださいました。それを聞いて私は、目の前にイエス様がかけられた十字架が光っているように感じ、「そうか、人間の愛なんか比べるに値しない、もっと素晴らしい愛があったんだ」と思いました。イエス様の愛を本当に解った時、祈りつつ待っていてくださった教会員の顔が浮かび、キャンプでの友達との別れもあり、最後の日はこんなにも私に涙があったのかと泣き通しでした。神の深い愛によって導かれたんだとようやくわかった時、本当にうれしかったです。社会に踏み出すにあたって人間の生きる目的、本当の愛、死があっても永遠に生きる喜びを知ることができたのです。揺るがない人生の基盤、基礎を見出したのです。
 高校の卒業が迫り、徐々に聖書をもっと深く学びたい、多くの人に救いの喜びを伝えたいという気持ちが大きくなり聖書学校での学びをしたいという思いがありました。しかし、私のような罪人が、能力の無い者が、と思い悩み結局、就職をし、家庭を持ち、教会生活している中で、聖書を学び伝道者になるということに尻込みしていました。
 2人の子どもの進学、教会生活、社会生活と、世の生活に埋没していく中で、「イエスはシモン・ペテロにヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているかと言われた。ペトロが、はい主よ、私があなたを愛していることは、あなたはご存知ですというと、イエスは私の子羊を飼いなさいと言われた。」このヨハネ福音書21章15節~17節のみ言葉はいつも心の隅の中でくすぶって消えることはありませんでした。
 私は自分の能力の無さと生活での経済面のゆえにと言い訳し、神から逃げていたように思いました。やがて、二人の子供の進学、就職という、親の務めを果たしながらもいつしか日本の教会の福音前進に自分も拙いながらも伝道者としての一翼を担えたらと考えるようになり、今こうして新潟愛泉伝道所で福音を伝えています。ぜひ皆さんも、伝道所に来てください。